お花畑(物理)で育った人の話
2020-12-16
僕はお花畑で育ちました。
一般に「お花畑」という表現は皮肉として用いられるものでしょう。現実が見えていない人、妄想に取りつかれた人、理想ばかりを追う人、基本的に良い意味合いで使われるものではありません。
昔から僕は悉く「お花畑」という評価をされ、実際に「道徳」の授業の模範解答を地で行こうとする性格でした。
中学の担任の先生――異口同音に頭の固い人と言われていた――は「君はもう少し融通を利かせたらいいんじゃないの?」と、碌に掃除をしない同級生を咎める僕に対して諭しましたし、高校の担任の先生には「お前の主張は理想論だぞ」と、(何の話だったかは忘れましたが)言われたものです。
勿論、そういった大人たちの言葉に悪気はなく、僕はそれが、社会で清濁併せ飲むためのちょっとした切欠を与えるためのものだった、と今では思っています。 それに、自然とそういう思考になる事は悪いことばかりではなく、学校の成績としてはいい方向に働くものでした。
ただ、性格に由来した思考なので、ふとした会話でもこういった考え方が漏れ出るという事があります。 知人Mは屡々「君は『お花畑』の妖精さんだ」と僕を揶揄します。 彼は思考が非常に現実的かつ論理的なので、意見が面白いくらいに割れます。 色々と偶然が重ならなければ今頃彼とは縁が切れていたでしょうから、合縁奇縁とはよく言ったものです。
さて、僕がお花畑で育ったというのはそういう「お花畑」ではなく実際のお花畑のことです。 とはいえ、実家が花屋さんをしていたということではなく、母や祖母が園芸を趣味にしていたという程度のものです。
実家や祖父母の家は片田舎にあるものですから、土地だけは都会よりは広いもので、花や木を植えるような余裕があります。 畑や田んぼの一角に祖母は色々な花を植え、母は庭に桜や紅葉といった木からパンジーやアジサイといった花まで様々な植物を育てていました。森の中の開けた場所に花が咲き乱れていて……、というようなメルヘンなお花畑ではありませんが、少なくとも身の回りに花が多い環境で育ったのは事実です。
このような環境で育ったためか、学校での「植物を育てる」活動に対しては興味が人一倍強いものでした。 ですが、親が植物に近しい人とはいっても、僕が上手に花を育てられるわけではありませんでした。
小学校低学年で受ける「生活科」の授業ではアサガオを育てます。僕も例に漏れずアサガオを育てました。 定番化している授業なのもあってか、便利な「アサガオを育てるキット」のようなものがありました。 種からプランター、そして蔓を支える支柱まで、全てが一纏めになっていました。要はそれを組み立てて種を植えるだけです。 水やりも行っていたはずですが、それは殆ど記憶に残っておらず、もしやっていたとしても、学校の授業なので先生に言われてやっていたものだと思います。
ここまで丁寧にパッケージ化された教育ですから失敗するはずがありません。夏には綺麗なアサガオが咲き、プランターを抱えて家に持って帰ったものです。
問題は中学年の「理科」で登場するヘチマです。 僕の通った小学校では実際にこれを植えて観察することをしませんでした。 ですが、興味を持った僕は親に頼み、結果として家で育てることになりました。
親はどちらかというと放任主義でしたので、家の庭の一部を空けてそこに植えろと言いました。 要は自分で育てたい植物の面倒は自分で見ろということでした。 僕は撓に実ったそれらの植物をイメージし一気呵成の気持ちで取り組み始ましたが、当時小学生だった子供に植物を最後まで育てられるような気の長さと計画性はありませんでした。
実家に植えたヘチマの面倒見を早々と投げ出した僕を傍目に、母は最低限の水やりや支柱の世話をしていました。 そのため、辛うじて実を実らせるところまでヘチマは育ちました。
最後まで放置しっぱなしだった僕は実った小さなヘチマを見てその小ささに驚きました。 なぜならば、孫が育てていることを知り、自分もと祖母が育てたヘチマは教科書にあるような立派な実をつけていたからです。 ですがこれは当然の話でした。碌に手入れされていない植物が立派に育つことなどまずないのですから。
ヘチマの件で反省した僕は、ちゃんと植物を育てられるようになりたいと一念発起します。 ところが、母の持っている園芸関係の本を読み漁った僕は唖然としました。 植物の手入れについて知識が皆無だった僕にとって、植物を立派に育てるために必要なプロセスや、その過程で知っておくべき知識の多さは衝撃的でした。
植物を育てる上で必要なことは、「種を蒔いて水をやり、後は愛情を込めていれば良い」というような単純なものではありません。 定期的に水をやるだけではなく、害虫への対策や間引きも必要になります。 さらに育てる以前の話として、適切なプランターや土を選択できる知識や、その植物に対して害にならないような肥料の知識が求められます。
結局、僕は園芸をする趣味も仕事も持ちませんでしたが、実体験から「種を蒔く・水をやる」というような単純な発想では植物を育てられないことを知りました。
ツイッターなどを使用していると、ふと「花を大切にしよう」という類の意見をツイートすることがあります。 そんな時、ふと、僕は本当にこの「花」について理解しているのだろうか、という自問をします。
基本的に意見を交換するのが目的のサービスですから、意見を表明すること自体は何も問題ありません。 ですが、僕は「花」について意見するときに「花が美しく咲くまでの過程」までを考えられているのだろうか、と考えます。 つまり、その「花」が咲くまでの色々なプロセスを頭に入れたうえで意見できているかどうかを思案します。 花の苗を刈り取る風景は、プランターの花が全て駄目になってしまわないように間引いている風景かもしれません。
そもそも、僕はヘチマを碌に育てられなかったのです。 そんな僕が「花を大切にしよう」と言ったところで、その言葉に説得力はありません。 ヘチマ一つをちゃんと育て上げるために必要な知識や手入れについて、今の僕なら多少は知っています。 決してそれは、「生活科」のキットのように簡単なものではありません。
ある意見が頭に浮かび、それを発信しようとした時、大昔に育てようとしたヘチマの蔓が僕を締め付けてきます。 とても馬鹿馬鹿しい話かもしれませんが。 何か意見をするとき、自分で蒔いた種を自分で刈り取れるようにしよう、と自戒します。 「花を枯らしたくない」という気持ちから「花の間引き」にいちゃもんを付け、結果として「花」を全て枯らしてしまうのはあまりにも悲しいことです。
とはいえ、あることを主張したい時、その背景の全てを把握しないといけないというのも無理な話です。 そんなことを課してしまうと、僕は何も発信できなくなってしまいます。
植物園で草花を見たとき、それらを大切にしようと口にすることは決して悪いことではありません。 植物園の花が綺麗だったという人に対して、「でもお前は植物のことを何も知らないだろう?」「利いた風な口をきくな」などと口を挟むのは、あまりにも無粋です。
結局のところ、バランスが大切なのかもしれません。 少なくとも、ヘチマを枯らしかけた僕を見かねて最後まで面倒を見てくれた母に対する感謝はしないと、と感じます。 公園などで見るお花畑は、メルヘンな力によって自然と現れたものではなく、誰かが面倒を見てくれているものです。 お花畑を見るときは「お花畑」にならないように気を付けたいものです。 「お花畑」はお花畑を淘汰する可能性があるのではないかと、少しばかり不安になります。
現実を見ずに表面的な情報ばかりを見て、勝手な「お花畑」の想像で野次を飛ばすのは避けたいものです。 発言をする前に、一度胸に手を当てて自分が「大切にしたいと思う花」についてどれくらい知っているのか自問自答することが「大切なのではないか」と、思ってなりません。
最も、僕がこうして書き連ねた内容そのものも、結局のところ「お花畑」なのかもしれませんが。
(2020/12/27更新:文体の調整)